道東出身の有名人の方に改めて道東の素晴らしさを語っていただき、そしてまた、道東の外へ出ようと思っている若者への指針を語ってもらう新コーナー!
第1弾は釧路市出身のミュージシャン・大山正篤さんです!
【取材協力】東京・新宿「ROCK CAFE LOFT is your room」
釧路市阿寒町生まれの少年時代
――大山さんは釧路市のどのあたりのご出身なのでしょうか?
釧路市の阿寒町です。昔は釧路市と阿寒町って別れてたのですが、今は合併されまして、なんとうちの町も釧路市阿寒町になったんです。デビューしてこっちで色々やるようになって“釧路市出身”って書かれるようになったんですけれど、向こうに帰ると「お前、阿寒町だべや、釧路市を語るんじゃねーよ!」って言われていましたね(笑)。やっぱり、釧路と阿寒町では超えられない壁はありますね。阿寒町からすれば圧倒的に釧路は都会ですね、なにしろお店がありますからね!
――ご両親も北海道ご出身なのでしょうか?
父は宮城県仙台市、母は北海道生まれです。ウチの家族は母の地元に家を建てて、そこに住むかたちになりました。子供の頃は「なんで釧路市に建ててくれないんだ!」と思いましたけれど、僕が幼少期の頃、ウチの家族は父の転勤に伴って道東をあちこち移動していたんです。なので、今の実家は実家という感覚がないんですよ。宮城県出身の父がなんでそんなに道東にこだわったのかは、いまだに謎なんですけれどね。
――大山さんは中学生の頃、吹奏楽部の部長さんだったんですよね?
優秀だったせいか、中学校2年生の時に選ばれて、3年生の時もやっていました。まぁ、圧倒的な人手不足がありましたけれど(笑)。通っていた中学は1クラスに30人程度で、全校生徒で100人いないくらいの、小さな学校でした。
――音楽が昔からお好きだったんですね。
いえ、なにせ小さな小さな学校だったので、男子生徒が参加できるクラブ活動が2つしかなかったんです。「野球部か吹奏楽部」かっていう。僕は小学生の時に野球をやってたので「野球部かな」と思ったんですけれど、当時の少ないクラスメイトの中に天敵の子がいたので、消去法で吹奏楽部に入ることになりました。
吹奏楽部からバンド結成、そしていざ東京へ
――やっぱり、東京にはバンドがやりたくて出てきたのでしょうか?
そんなことないですよ、大義名分はそうでしたけど。実は、東京の大学にしか入れなくて行っただけなんです。高校から成績が悪くなってしまって……。
中学時代優秀な生徒だった大山さんは当然進学校の高校へと進学。しかし高校時代に待ち受けていたものは……
いい高校には入ることができたんですけれど、入ってはみたものの、ほら、僕は店もないような群部出身ですから。当時の釧路市は全然賑わってたので、こっちからしたら大都会なんですよ。誘惑に、もののみごとに飲み込まれて(笑)。
――たとえば、どんな誘惑ですか?
僕の頃はマンガの『ビーバップ・ハイスクール』が流行ってたじゃないですか。その感じと“日本のUKロックの走りは釧路!”みたいな雰囲気がありました。ただ単にロンドンも釧路も『霧の町』っていう共通点だったんですけどね(笑)。
――バンド活動を始めたのは高校生の頃ですか?
そうですね、たまたまクラスにギター弾きがいて。「お前吹奏楽部で打楽器だったならドラム叩けんだろ」ってバンドやることになって。でも、その頃は音楽に疲れちゃってたところがあって「いや、そういうのはいいや」って断ったんですけれど、「いまバンドやったら凄いモテるぞ!」って言うから「じゃぁ、やる!」って(笑)。これがまた、やったらモテちゃったんですよ。それで調子に乗っちゃって“なんちゃってパンク”をやっていましたね。
演奏中の大山氏近影(ご本人提供)
――パンクがお好きだったんですか?
好きでしたね~。当時のバンド少年はテクニカルな《ハードロック派》、勢いだけでいく《パンク派》、あとは頭よさげにみせる《ニューウェーブ派》の3本柱だったと思います。当時は「髪の長い男って気持ち悪いな」って思ってたんですよ。だからニューウェーブかパンク。僕は一応クラシック上がりだったので、譜面の読み書きができたんです。そうすると、パンクは簡単だし、お客さんが盛り上がってくれるしお手軽な感じがして。ニューウェーブも音楽的には好きだったんですけれど、変な髪型してカッコつけてたのが抵抗ありましたね。
――東京に出てくる時の経緯を教えてください。
最初はですね、札幌でバンドやろうと思ってたんですよ。釧路で名うてのバンドのメンバーを引っこ抜いて“札幌へ出て有名になってから東京へ”って考えてたんですよ。
――お若いのに、順を追った考え方をしたんですね。
元々公務員の次男坊なので“石橋を叩いて渡る”っていう部分があるんでしょうね(※お父さまは教師)。でも、蓋を開けてみたら僕以外の3人がみんな「札幌には行かない」ってことになっちゃって、一人で札幌行ってもしょうがないじゃないですか。だったら、「てっとり早く東京行っちゃおう!」ってなったんです。
東京と北海道との違い
――出てきた当時、地元との違いにビックリしたことはなんでしたか?
最初は無謀にも新宿に住もうと思ってたんですよ。入ったのが最寄りが高尾駅の拓殖大学だったので、それで中央線沿線の新宿でアパート探したんですが、もちろん安い物件はなくて、どんどん新宿から下っていって、武蔵小金井で止まったんです。そこには1年住みましたけれど、トイレはボロボロ、お風呂は当然ない、っていうアパート。でもそんなのは平気だったんですけれど、唯一気になったのは、窓が一枚しかないこと! 一重の窓! 北海道はどんなボロ屋でも窓は二重なんですよ。それを見て「いつかビッグになって窓が二重のところに住んでやる!」って思ったんです。
――東京でビッグになっても多分、窓はずっと1枚ですよ!
まぁ、そうなんですけれどね(笑)。出てきたばかりの時は窓が一重でびっくりしましたね~。
――東京へのイメージってどんな感じを持っていましたか?
怖いところだと思ってましたね~! 「暮らせんのかなぁ」って思っていました。仕送りもなかったんですよ。親からは「国公立の大学に行くんだったら生活費も払ってやろう」って言われてたんですけれど「私立に入るんだったら自分の面倒は自分でみろ」って言われまして、自分で働くしかなかったんです。
――学生時代、どんなところでバイトをしましたか?
それがですね、僕は「東京に行ったらなんでも仕事があるだろう」って思ってたので上京してすぐに金髪にしちゃったんですよ。今は自由なところも多いと思いますけれど、当時は本当に仕事がなくて、最初は道路工事の警備員から始まり、どんどんアンダーグラウンドな仕事の方に行ってしまって(笑)、なんとかギリギリで生活していました。東京を舐めてましたね。だから学生時代を振り返ると「お金がなくてお腹が空いていた」って記憶しかないですね。あと「夏は暑い」という。
――それ、普通ですけれどね(笑)。大山さんが東京に慣れたのはいつ頃でしょうか?
最初の夏を乗り切ったくらいからですかね。真夏はエアコンもなかったし、窓開けても熱風しか入ってこないんです。扇風機をもらってきたんですけれど、首振り機能が壊れてて首を振りっ放しなんですよ。でも、僕は頭が良かったんで(笑)「気化熱の応用を使おう」と思いついて「体を水で濡らして扇風機の前から離れないとすぐ冷える」ということを発見したんです。でも、すぐに乾くんですよね……。だから一晩中濡らしては乾かしって感じでしたよ。
後編はこちらから→https://do-life.jp/happen/4554.html/
Profile
大山正篤(おおやま・まさのり)
1964年5月25日生まれ・北海道釧路市出身。
音「G.D. FLICKERS」「ZIGGY」のドラマーを経て、
音楽プロデューサーや講師として活躍。
現在はバンド「the 8-eit」のドラマーとして活動中。
Information
「the 8-eit」エイトの日 ファン感謝デー『【真夏の情欲】衝撃の8円 ワンマン』
開催日時:8月18日(土)19時開演(18時開場)
会場:東京・代々木「LIVE Labo YOYOGI」
入場料:8円(前売り)/4,500円(当日)
チケット予約:オフィシャルサイト「the 8-eit 」
取材協力
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