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28歳で上京、人形作家として活躍している新栄町出身の恋月姫さんの話【前編】

2019.3.18

道東出身で遠方で活躍をしている著名人に、道東の素晴らしさと想い出を語っていただき、そしてまた、道東から夢を追いかけようと思っている若者へのアドバイスをいただく当連載『道東人』。

第3弾は釧路市新栄町出身で、人形作家として活躍している恋月姫さんにお話を伺いました!

【取材協力】東京・杉並「Studio LunaAngelico

美術のために札幌へ

ーー釧路市ご出身ということですが、どのあたりに住んでいたのでしょうか?

小学生までは新栄町に住んでいて、中学生からは当時の新興住宅地だった白樺台に移って高校生時代もそこで過ごしました。

ご両親と妹さんは現在も釧路市に住んでいるという恋月姫さん。

ーー今も印象に残っている故郷の風景はありますか?

子供の頃はよく氷で遊んでいたなという記憶があります。近所の住宅に積もった雪が氷になってそこで滑って遊んでいましたね。頭を何回もぶつけた記憶があります。そういう自然の遊びを覚えていますね。釧路は雪は降らないけれど、吹き溜まりというか氷として残ってしまうんですよ。あとは高校生の頃の部活が生物部でよく山や湿原へ動植物を調べに行っていました。自然が好きなので楽しかったですよ。

ご両親に反対されたため、東京の美大ではなく札幌の美術専門学校へ進学。

大学は本当は東京の美大に行きたかったのですが、親が反対したので、親戚の住んでいる札幌の美術専門学校に行くことになりました。だから、釧路よりも札幌暮らしの方が長いですね。

ーー小さい頃から美術が好きだったのですか?

そんなことは全然なくて、子供の時はむしろ美術は苦手でしたね。でもある日突然変わる時、目覚める時ってあるじゃないですか。中学生の時に美術制作で「粘土で自分の顔を作る」という課題が出たんですが、それを作っていた時に「これはけっこういいかもしれない」と思ったんです。立体というか顔がテーマだったから「いいな」と思ったのかもしれません。私は顔が好きというか、人体自体が好きなのかもしれませんけれど「楽しいな」と感じたんです。あと、父親が小学校の先生だったので家の本棚に色々な本がありました。その中で『美術全集』という本があって、そこから好きなものを選んで見ていたのですが、特にハマったのは「シュルレアリスム」ですね。サルバドール・ダリなんかが載っていて、何回も見ました。美術書なので、なぜそういった美術運動が起こったのかという背景も書いてあり、貪るように読みました。

ーー札幌での暮らしはどうでしたか?

当時の札幌には、文化活動といったものが少しあった頃です。それで版画を習ったり、演劇を習ったりしていました。

ーー演劇ですか?

そういった文化活動でお友達になった人たちの繋がりで、とあるアングラ劇団に入りました。そこには東京で俳優の唐十郎さんのところや寺山修司さんの劇団「天井桟敷」で演劇を習った方たちがいて、すごく刺激的でした。

ーー前衛的な芸術が好きだったのですね。

そうなんです。昔から前衛が好きなんです。暗黒舞踏も習いにゆきましたよ。当時、小樽で旗揚げしたビショップ山田さんの「北方舞踏派」が研修生を募集していたので、参加しました。そういうものが全部後々繋がるんですよね。

札幌で文化に触れた恋月姫さん、そして、人形との運命的な出会いもその頃だったといいます。

人形の販売業から人形作家へ

もともとアンティークドールが好きだったのですが、最初の出会いは写真でしたね。“お人形ブーム”が日本にも何度かやってきましたが、その一環で地下鉄の広告にお人形が使われていたことがありました。広告に使われていたのはアンティークのビスクドールなんですけれど、釘づけになりましたね。それを見た時「不思議なものだなぁ」と驚いたんです。その時私はたぶん20歳くらいで、もう少しで就職しようという時でした。

ーー本格的に人形の世界に携わったのはいつ頃からですか?

お人形の世界と出会ったのはデザイン会社に就職した後ですね。色々な活動をしている中で出会ったというか、今でいう”サブカル”に出会ってからですね。当時札幌には「人形屋佐吉」という不思議な創作人形を販売しているお店があったんです。店主が道内や東京で人形を作っている方に依頼をして作ってもらった人形を販売しているお店でした。その店主さんとは演劇関係で出会い、「人形を作ってみない?」と言われた時に、なぜか「作れるな」と思ったのです。

当時は布で創作人形を作っていたという恋月姫さん。創作人形とは、布のほか、粘土・木彫り・樹脂などで作るものとのこと。

人形作りは、演劇のような総合的な美術だと思います。だから自分の思いが入ってしまう部分があって、そこがすごくおもしろいなと感じたのです。最初は市松人形のような女の子を作りました。

ーー作品を見たところ、女の子の人形が多いですが、男の子も作るんですか?

男の子も作りますよ。でも女の子と違って、ちょっとピリピリした感じの子になりますね(笑)。

「人形屋佐吉」の店主さんとの出会いがきっかけで、恋月姫さんはそれまで勤めていた会社を辞めて人形の世界へ。

会社は何社か勤めてみたのですが、やはり将来を考えた時に「違う」と感じました。それで人形の方を本格的にやろうと思い「人形屋佐吉」さんのお手伝いから始めました。店主は片岡佐吉さんといって、本人は人形作家にもなりたかった人なんですが、人形を選ぶ側の人でしたね。そのお店で店番から人形の買付けまで、色々と経験しました。自分の人形制作の方は、仕事後にコツコツやっていましたね。

ーー本格的な人形の作り方は、どんな工程で行なわれるんですか?

私の場合は原型を粘土で作って1回型取りをします。厚みが場所によって変わってしまうのが嫌で、すべてを均一な厚さにしたいので、型を使って作るのです。手間はかかりますけれど、1度型を作ってしまえば色々とまた作ることができますからね。

札幌から表参道のど真ん中へ

「人形屋佐吉」で働きながら、人形制作も始めた恋月姫さん。お店の東京進出が決まり、ついに札幌から上京することになりました。

東京へ来たのは28歳の頃ですね。「人形屋佐吉」が東京にもお店を出そうとしていて、表参道のハナエモリビル地下にあった骨董街の一角にずっと申し込みはしていたんです。でもそこは人気の物件で、なかなか空きがなかったのですが、ついに空いたと聞いてすぐに東京へ行くことになりました。

ーー東京へ行ったのはそれが初めてでしたか?

いえ、東京へは人形の買付けに来てはいたんですけれど、当時はそんなに簡単に来れなかったですね。初めて東京に来たのは大学受験の時で、その時の東京は活気もあって凄かったですね。親戚が原宿に住んでいたのでそこに2週間くらいいました。そこから歩いて渋谷へ行ったりしましたが、今の街の感じではないですよ。それから10年後に東京へ来て生活することになりましたが、全然様子が変わってしまって「あれはどこだったんだろう?」というくらいわからなくなっていましたね。

ーー東京に来た当初は、どこに住みましたか?

最初は原宿のキャットストリートの一角の民家に間借りをして住んでいました。偶然18歳の頃に来た町でしたね。人はいっぱいいましたけれど、当時はまだ庶民的なところが残っていて銭湯なんかもありましたよ。

ーーいきなり表参道、原宿住まいとは凄いですね……。ちなみに、東京に住んで驚いたことは何かありましたか?

家のつくりの違いに驚きましたが、一番は言葉の違いですね。今まで自分が使っていた北海道弁にビックリしてしまいました。たとえば、北海道では手袋を「履く」って言うのですが、東京で手袋を「履く」と言ったら笑われてしまって……。

ーーそのほかに、東京の生活で苦労したことはありますか?

実際に住んでみて、「もっと若い時に来なくちゃいけなかったな?」とは思いました。何をするにもやはり疲れてしまって(笑)。東京は、ちょっと出かけるにも歩かなきゃいけないじゃないですか。凄く疲れるんですよ。昔ならこんなに疲れなかったなと感じます。

ーーとはいえ、まだ20代ですよね。

20代とはいえ既に仕事をしていましたからね、昔のような好奇心がないんですよ。物事に興味がなくなってしまったというか。だから出歩くことも少なくなって、表参道にずっといました。だから表参道は札幌と同じ感覚で歩けますよ。反対に、銀座や新宿なんかは何度行ってもわからないですね。

恋月姫さんは、原宿・表参道で10年過ごし、その後、現在のアトリエを杉並区に構えたそうです。後半では恋月姫さんに人形に対する思いやその原点などをお聞きしました。

後半はこちら


 

Profile
恋月姫(こいつきひめ)
1955年生まれ、北海道釧路市出身。
1980年から人形作家として活動を開始。個展の開催や作品集も多く発表してるほか、海外の展覧会にも意欲的に作品を出展。2018年からアトリエ『LunaAngelico』で人形教室も行なっている。

Officialウェブサイト「銀の翼

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