2018年1月、道東とはなんの縁もゆかりもないひとりの放送作家が、突然中標津に移住したという。
その名は、“吉本放送作家友野ちゃん”こと友野 英俊。
《ダウンタウンファミリーの末席にいる唯一の東京芸人》と呼ばれる芸人生活を辞めて、放送作家に転身したのが2010年。そして今年初めになぜか北海道移住——。その理由を伺うため、独占インタビューを敢行しました!
狭き門をくぐり抜けた芸人時代
——まずは芸人としてデビューした経緯を教えてください。
東京吉本の『野沢直子の弟分オーディション』に合格したのがきっかけです。その当時、1,000人の参加者から選ばれることができて、東京吉本所属になったんです。それでデビューしたのが18歳の時ですね。
——それは凄い倍率だったんですね! デビュー当時はどんな活動をされていたんですか?
いきなりフジテレビの『ライオンのいただきます』にレギュラーをいただくことになって。あとは当時、吉本の銀座七丁目劇場ができた頃だったので、そこに極楽とんぼさんやロンドンハーツ1号2号なんかとその劇場に上がっていました。
——いきなり順風満帆だったんですね。野沢さんとはどのような関係だったんでしょうか?
始めの頃は直子さんの番組についていったりしていたので、“こうやって受け答えするんだよ”とか学ばせていただきましたね。直子さんから直接教えていただいたのは、“ネタとかやらなくていいから、東京はとにかく何か聞かれた時に《おもしろい受け答え》ができるかどうかだから”ということ。そこの瞬発力を伸ばすといいと教えてくださいました。
——なるほど、それは現在のお笑いのネタありきの発想とはだいぶ違うんですね。
自分はまだ18歳で《芸人はネタだ》と思っていた時に野沢さんから“悩むことじゃないわよ”と言われてホッとしたのを覚えています。
現在も野沢直子さんを公私ともに愛しているという友野氏。
さらに、あのダウンタウンとは、友野氏がまだ素人時代に新大阪駅で偶然遭遇して以来の関係であるという。
——ダウンタウンさんとはデビューしてからずっと交流をお持ちだと聞いたのですが。
実際のことをいうと、デビュー前からですね。当時ダウンタウンさんが大阪でやっていた『4時ですよーだ』の素人オーディションのコーナーに合格して、番組に出演しにいったことがあるんです。
——それもまた凄いですね。
事前オーディションで“逆立ちができる”と言ってやって見せたら、ポケットに入っていた小銭が全部出てきてしまってパニックになるという、それで合格しました。
——滅茶苦茶な受かり方ですね(笑)。
はい、でも結局生放送の都合で時間内には出られなかったんですけどね……。当時まだ高校生で、痛い素人だったので楽屋まで挨拶しに言ってダウンタウンさんと握手してもらって帰りました。その後は劇場へ観に行って、勝手にダウンタウンの楽屋に入っていって毎回サイン貰いにいったり……。
——その後も、新幹線のホームで浜田(雅功)さんに会われたそうですね。
はい、ダウンタウンさんが最終の新幹線で東京から戻られて、僕が公衆電話で話しをしていたら、浜田さんが電話かけにいらしたんです。“オマエ、俺ら待っとんか?”って浜田さんにお声かけいただいて、“いやいや、偶然です”と。その時に“芸人になりたいんか? まあなんにもあてがないなら、東京出てきたらここに電話してこい”って電話番号をいただいて。
——それも凄いエピソードですね……。
結局、流れ流れて東京でダウンタウンファミリーの末席に加えていただいて、そのうち自分の希望していた松本派の方に意志と身体が動いていった、という感じです。
——いろんな恩人がいらっしゃいますが、友野さんにとって野沢さんは結局なんなんですか?
野沢さんは《芸人になるきっかけをくださった師匠》みたいな感じですね。愛してます。キスは何回かしました(笑)。
——では、松本(人志)さんはなんなんですか?
先輩ですよ、芸人の。
——えっ、それでいいんですか?
えっ、でも……あってますよね?
——なんかもう少しあるかと思いました。
いえ、まあ尊敬する先輩芸人です。……それで、人生の師匠は三沢さんです。
——三沢さんってあのプロレスラーの?
そうです!
なんと《人生の師匠》は、プロレスラー、三沢光晴氏だという友野氏。
——三沢さんはいつからのお付き合いなんですか?
僕がちょうど20歳の時から、今から25年くらい前からですね。四谷三丁目のスタジオの営業先でお会いしたんです。『アサヒ芸能』さん主催のイベントがあって、そこに営業で呼ばれていったんですけれど、その日のマル秘ゲストが、当時ちょうど勢いのあった全日本プロレスの三沢さん達だったんです。
“超世代”といわれた三沢さん、川田さん、小橋さんがいて、鶴田さんから初めてカウントスリーを取った後の、みんなが会いたかった頃の三沢さんとお会いしたんです。
——ちょうど1990年頃の“全日ブーム”が起きていた時ですね。
そうなんです! 僕は三沢さんの二代目タイガーマスクとしてのデビュー戦から観ていたんです。実家で塾に通っていた時に“早くしなさい!”と母親から怒られても、それを観たいがためにゆっくり用意しながら全日本プロレスを観て。
——まさにプロレス少年だったわけですね。
ああいうマスク被って、“自分もプロレスラーになりたい!”っていう……。
——イヤ、友野さんガリガリじゃないですか(笑)。
そうなんですけどね(笑)。当時の全日本プロレスはジャイアント馬場さん、ジャンボ鶴田さんの時代だったので勢いありましたね。馬場社長の思想っていうのは小中学生に響きましたからね。“プロレス界をこれから全日本プロレスが独占します”っていうあの発言、あれには影響受けました。
東京のお笑いに憧れて
——話を戻しましょうか。友野さんが珍しいのは《関西のお笑い》っていうものは通過していないということですよね?
子供の時から全然観てないですね……テレビに関西の漫才師とかが出ると身体が勝手に動いてすぐチャンネル変えちゃいます。
——そんなにですか?
『吉本新喜劇』も一度も観たことがないんです。自分が新喜劇に出ることになって、初めて稽古の時にVTRで見ることになりました。
——憧れていたのは、どんな芸人さんだったんですか?
そうですね、やっぱり1980年代のとんねるずさんは僕らの青春そのものでしたよね。。番組録画VTRも著作本もレコードも全部持ってますし、僕はラジオにハガキを出して読まれた男ですから。
——とんねるずさんですか!
文化放送でとんねるずの『二酸化マンガンくらぶ』っていう月〜金の10分帯の番組があったんです。それがそのままとんねるずの『オールナイトニッポン』でもコーナーになったんですけれど、採用されましたね、1回だけ。
——そんなにずっと投稿されてたんですね。
そうですね(笑)。でもその時に記念でもらった赤と黒のボールペンで『野沢直子の弟分オーディション』の書類もそれで書いて受かりましたしね。運命的なものを感じます。
——芸能界に入って、直接お会いしたことはあるんですか?
石橋貴明さんには旧フジテレビの食堂でお会いして、挨拶するだけでしたね。僕が吉本入ったばっかりで、とんねるずさんはもう『みなさんのおかげです』を始められた頃でしたけど、カッコよかったですね……。
——どういうところに憧れたんですか?
ネタネタしていないというか、予定調和がなくて東京っぽい感じに憧れてましたね。ヘアスタイルもカッコよかったし話し方も! あとはラジオを聞いていると、ビートたけしさんととんねるずさんはだいたい同じような《芸人像》を語ってらっしゃって、“芸人っていうのは、《コイツは何するかわからない》って危ない部分を持ってなければいけない”という。そこに憧れましたね。
——芸人としてはまさに《東京育ち》だったんですね。
はい、芸人としては、純粋に《東京スタイル》で育ちましたね。“なんでやねん”っていうノリではなくて、“なんなんだよ!”ってカメラに向かって怒ってくるような感じが印象的で。あとは素人芸から芸人になられたというルーツも、カッコイイと思いましたね。
——東京では誰に会いに行ったんですか?
やっぱり三沢さんです。“人生の師匠”は三沢社長なんで。人としての僕の思想は三沢さん始まりです。
——また三沢さんですか……。
最初ご一緒した営業でステージ終了後、僕らお笑いチームは主催者と一緒にご飯に行かなきゃならなかったんですね。でも“今行かなかったらもう一生会えない! 次はない!”と思って、打ち上げに行かずに帰ろうとしていた三沢さんの方に走っていったんです。
——凄い行動力ですね。
僕は今でも三沢さんのVTRを観てから仕事場に行くんです。その時も“今日も三沢さんがジャンボ鶴田に勝った試合を観てからここに来ました”って言ったら、握手と、ハグをしてくださって。デビュー戦から観ていた憧れの選手にそこまでしていただいて、“なんてお優しい人なんだ”と感動しましたね。さっきネタやってただけなのに。
——いやいや(笑)。
そうしたら三沢さんが“今から僕ら食事に行くけど、よかったら友野くんも来る?”って誘ってくださったんです。“どうせそんな身体じゃまともなもの食べてないんだろ”って言ってくれて。
——それからのお付き合いだったんですね。
それからは試合や練習が終わるくらいに“ちょうど今近所にいまして……”と電話していつもご飯に連れて行ってもらいました(笑)。
——まさに恩人ですね。
ある時なんか、女の子に振られただけで三沢さんに相談しに行ってたんですよ。ちょうど三沢さんが武道館でタイトルマッチをやる直前の1時間半前に電話しちゃったんです。
——ええ〜っ!
“いま武道館の近所にいるんですけど……”って言ったら、“ちょうど今から試合でね、終わったら話聞くから会場おいでよ”という感じで……。
——ひどい(笑)。
タイトルマッチの前なのに“終わったら飯でも行こうか”って言ってくれて。今考えたら失礼なことばっかりをしていたんですけど、その時の恩を全然返せてないのが心残りなんですよね。
——怒られたことは?
ないですね。だいたい全部話を聞いてくださって、“僕はね……”ってアドバイスをしてくださる感じで。僕の《人生の師匠》は三沢さんなんです。僕のルーツですから。
放送作家に転身、そして中標津へ——
——今は放送作家として活動されていますが、芸人・タレントみたいな道はもう諦めているんですか?
う~ん、出方として今のこのポジションが楽なんです。楽っていったらダメなんですけど。
——「放送作家になる」っていったら、周囲はどんな感じだったんですか?
“作家やらさせてもらってます”ってことをTMC(東京メディアシティ)で松本さんに挨拶した時、ちょうどご飯を食べてる時だったので、“おお、うん”みたいな感じで。よく考えたら松本さんって飯食べてる時に話しかけられるのが一番嫌いだったんですよね。
だから“あ、いけないタイミングだったな”って思って。向こうも“わかった、もうええわ”みたいな感じで、こっちも“ああ、そうですよね”ってすぐ出ちゃって。その後松本さんは無言でお茶飲んでました。
——三沢さん以外の話はさっぱりしてますね……。浜田さんについてはどんな感じでした?
え、ホントに先輩ですよね……部活とかの。
——違いますよ(笑)。
まあ、お世話になりました先輩ということで……。
そんな友野氏は他にも憧れの著名人が多く、西部邁氏、石原慎太郎氏、立川談志氏、野末陳平氏等々、各界の大物にも臆せず個人的な突撃をしているという。そんな中のひとりが、あの“ムツゴロウさん”こと畑正憲氏である。
畑先生のところには直接ムツゴロウ王国に電話して、3週間ほど滞在させていただいたことがあるんです。
——またそういう時の行動欲は凄いですね!
そこで乗馬で競争をさせていただいて、馬の性質を学ばせていただき、“今度来た時はレース場で真剣勝負をしよう!”って言ってもらえたんです。
——今年初めからいきなり中標津に移住したのはそういうことも関係あったんですか?
直接そうは言えないですけれど、まずはムツゴロウ王国の近くの環境に行ってみようと。そこで認められるようになって、ぜひムツゴロウさんとレースをしたいというのが今の夢ですね。
——現在は、中標津ではどのような活動をしているんですか?
まだ貯金を食い潰しているだけなのですが、FMなかしべつ放送に企画を持ち込みに行ったり、札幌で吉本の仕事をしたりしています。最近はけっこう家を空けて札幌に滞在していることも多いですね。
——道東の寒さはいかがですか?
来たことはあったのですが、住んでみるとやはり別世界ですね。外出するのも勇気が要るというか。
——ぜひ夢の実現まで、頑張ってください。
ありがとうございます。
ということで、いきなり北海道中標津に移住してきた放送作家・友野 英俊氏が、昨年1月から書き溜めたコラム連載を『ドライフ』で開始する予定です。ぜひお楽しみに。
Profile
友野 英俊(ともの・ひでとし)
1971年生まれ・A型・兵庫県出身、よしもとクリエイティブエージェンシー所属の放送作家。
とんねるずのテレビに熱中し、ラジオでは投稿ハガキを読まれたことにより強く芸能界への憧れを抱く。石橋・木梨研究に没頭した青春期を送りながら、東京吉本主催の「野沢直子の弟分オーディション」に1000人の競争を勝ち抜き優勝を決め芸人として東京吉本所属に。
上京の際に新大阪駅のホームで偶然出会ったダウンタウン浜田雅功に図々しくも声を掛けたことによりダウンタウンファミリーの末席に加わり、松本人志派へと移行も成し遂げる。
1990年4月、18歳で華々しく芸能界デビュー。
以降テレビバラエティ『ライオンのいただきます』『マガ不思議』『コウジ園』レギュラーや「銀座七丁目劇場」等で活躍。
座右の銘は「芸能界はオーディションで入るもの。お金出して養成所? NOだろ、オレ石橋貴明派・木梨憲武派だから」
2010年頃から放送作家に転身。東京生活28年のすっかり都会人となったはずなのに、2018年1月に突然、北海道中標津に移住し現在に至る。